CBCラジオ企画
つボイノリオ さん
1949(昭和24)年4月18日愛知県一宮市生まれ。愛知大学法経学部卒業。
ラジオパーソナリティ、シンガーソングライターとして活躍。深夜放送出演が放送業界に入るきっかけとなる。以後『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『ハイヤングKYOTO』(KBS京都)など各地でレギュラー番組に出演。
現在は、1993年から放送のCBCラジオ「つボイノリオの聞けば聞くほど」のパーソナリティを務め、名古屋の朝のラジオの顔として活動中。
ラジオパーソナリティ、シンガーソングライターとして活躍。深夜放送出演が放送業界に入るきっかけとなる。以後『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『ハイヤングKYOTO』(KBS京都)など各地でレギュラー番組に出演。
現在は、1993年から放送のCBCラジオ「つボイノリオの聞けば聞くほど」のパーソナリティを務め、名古屋の朝のラジオの顔として活動中。

音楽に支えられた人生
つボイさん:ありがとうございます。僕の人生って、本当に音楽に支えられてきたんですよ。高校時代のフォークギター、大人になってから発見した演歌、それから幼少期に叔父から教わったジャズやラテン音楽。どれもが人生のある段階で大切な役割を果たしてくれたんです。今思えば、音楽がなかったら、こんな人生を歩んでなかったかもしれません。
高校の文化祭で人生が変わった、初めてのステージとの出会い
つボイさん:1曲目はザ・サベージの「いつまでもいつまでも」です。実は、寺尾聰さんがソロで活動する前に加入していたグループ・サウンズのバンドの曲で、1966年の7月1日に発売された曲なんですが、これ、僕が初めて本格的にギターを演奏した記念碑的な曲なんですよ。ザ・サベージというグループは、その後3年くらいで解散してしまったんですが、当時のカレッジフォークの流れを代表するグループだったんです。
つボイさん:高校の文化祭で、この曲をコピーしながら一生懸命演奏したんです。会場が一つになるほどの大盛り上がりで、その時、ステージの上から「俺は将来こっちの道に行けるかも知れない」って思いながら歌ったんですよ。後で振り返ってみたら、その後の人生で、あれを超えるステージはなかったんです(笑)。本当に人生の中で大切な瞬間だったわけです。その時は、ギターを持ってるだけで周りの同級生は「うわー、すごい」って言ってくれて。
つボイさん:もともと、叔父からウクレレをもらっていまして。ウクレレって4本の弦で、ギターは6本の弦があるんですよ。五本しかない指で、当初、6本の弦をどうやって押さえるのか、ずっと躊躇していた時代があったんですよ。しかし、ギターを弾いている学友を見るといい加減なゆるいコードで演奏していて、私の方がウクレレでちゃんとしたコードを弾いてる。
でもね、どんなに高度なコードを弾いても、牧伸二にしか見てもらえず(漫談の類にしか見てもらえず)「よし、俺もギターを弾くぞ」って思ってギターをやり出したんです。
当時のテレビとかを見ると、どのバンドもギター全盛の時代なんですよ。パフォーマンスはこれだと思い、一念発起してギターを手に、最初に弾いた曲が、実はこの「いつまでもいつまでも」だったわけなんです。
でもね、どんなに高度なコードを弾いても、牧伸二にしか見てもらえず(漫談の類にしか見てもらえず)「よし、俺もギターを弾くぞ」って思ってギターをやり出したんです。
当時のテレビとかを見ると、どのバンドもギター全盛の時代なんですよ。パフォーマンスはこれだと思い、一念発起してギターを手に、最初に弾いた曲が、実はこの「いつまでもいつまでも」だったわけなんです。
つボイさん:そうなんです。この曲でハーモニーの楽しさも覚えました。
学校の音楽の時間でもハーモニーはやってたんですけど、主旋律以外のパートってメロディーがつまらんですよね。退屈で、やってても全然楽しくなかったんです。そして、その頃はダークダックスやボニージャックスとか有名なコーラスグループがいたんですが、彼らのハーモニーは綺麗すぎて、全員が声を出して1つの塊になってるんですよ。どんな音で構成されてるかがわからないんです。
学校の音楽の時間でもハーモニーはやってたんですけど、主旋律以外のパートってメロディーがつまらんですよね。退屈で、やってても全然楽しくなかったんです。そして、その頃はダークダックスやボニージャックスとか有名なコーラスグループがいたんですが、彼らのハーモニーは綺麗すぎて、全員が声を出して1つの塊になってるんですよ。どんな音で構成されてるかがわからないんです。
つボイさん:そうなんです。ダークダックスは綺麗すぎてパートが分解できない。でも、ザ・サベージのハーモニーなら、どうなってるか音の構成がわかったのです。そこで初めて、ハーモニーをつける楽しさというのがわかった。それが、この曲の大きな学びでした。
大人になって初めて理解できた日本文化の素晴らしさ
つボイさん:2曲目は都はるみさんの「好きになった人」です。1968年に発売された曲で、100万枚以上売れたんですよ。でもね、若い頃の僕は、この曲の素晴らしさがわからなかったんです。むしろ、演歌なんて古いと思ってて、軽視していたんです。
つボイさん:そうなんですが、当時は洋楽やフォークばっかり追求していたんですよ。その前までは日本の芸能界は演歌しかなかったんですが、やがて洋楽が入ってきて、ロックンロールとか今で言うオールディーズとか、当時のサンレモ音楽祭での受賞曲とか、その後ビートルズに繋がる西洋のものばかり。また日本の中でもいわゆる外国の曲のカバーとかポップス系の曲ばかり聞いていたんです。ところが、大人になってから改めて演歌を聞いてみたら、「こりゃ、すごいな」って思ったわけです。当時、世代的にもう少し上の年齢だったら、都はるみさんのファンになってたかもしれません。

つボイさん:大人の耳になって聞くと、その素晴らしさが本当によくわかるんです。声量もあるし、歌い方も素晴らしい。クオリティが高いんですよ。都はるみさんと水前寺清子さんは、当時の演歌の革命児だったと思います。都はるみさんは、演歌なのに、舞台で激しく跳ね回って、ターンをしたり、当時としては、これは極めて斬新だったんですよ。
それまでの演歌というのは、女の人は普通ね、基本的には着物で、おしとやかに歌うのが当たり前だったんです。あんなビビッドな演歌のステージはないですよ。
そしてジェンダーフリーという言葉すらなかった時代、女の人はこういう演歌で、男の人はこういう演歌っていう固定観念を、一気にぶち破ってたのが、水前寺清子さんでした。短髪の粋な着流しで、まさにこれも革命的なステージでした。
見逃してた人たちが、こんな素晴らしい世界を表現していたのかと、私の感性を恥じました。
それまでの演歌というのは、女の人は普通ね、基本的には着物で、おしとやかに歌うのが当たり前だったんです。あんなビビッドな演歌のステージはないですよ。
そしてジェンダーフリーという言葉すらなかった時代、女の人はこういう演歌で、男の人はこういう演歌っていう固定観念を、一気にぶち破ってたのが、水前寺清子さんでした。短髪の粋な着流しで、まさにこれも革命的なステージでした。
見逃してた人たちが、こんな素晴らしい世界を表現していたのかと、私の感性を恥じました。
つボイさん:そうなんです。以前、アメリカへ行った時に、あるコンサート会場があったんですよ。日本人の歌手が来て、よくコンサートをやってたんですが、そこで意外だったのは、アメリカ人には、より演歌っぽい、コブシが効いた歌い方の人のほうが受けるらしいです。また、島倉千代子さんのような、細くてファルセットを交えながらビブラートしていく。あれは向こうの人にはすごく新鮮で驚きだったらしいです。声量のある、僕らが凄いなぁ上手いなぁと思う日本人の歌手は、アメリカにはいくらでもいるとのことでした。なるほど、これは演歌って世界に誇る日本の文化だったんだ。これを僕が見落としてきたのかと思ったわけです。
あと、1984年の第35回紅白歌合戦で、都はるみさんは大トリの曲の後にまさかのアンコールがあったんですよ。司会の方の機転を利かせてね。やっぱり日本人が恋い焦がれているんですよ。「これでもう終わるので、もう一度最後に歌って」って、紅白でアンコールを歌った訳で、今思えばすごいことですね。
あと、1984年の第35回紅白歌合戦で、都はるみさんは大トリの曲の後にまさかのアンコールがあったんですよ。司会の方の機転を利かせてね。やっぱり日本人が恋い焦がれているんですよ。「これでもう終わるので、もう一度最後に歌って」って、紅白でアンコールを歌った訳で、今思えばすごいことですね。
つボイさん:本当にそうです。古いものだと思ってたけど、実はすごく新しいことをやってたんだなって。それ以降、古いものはダメとかいうのはやめて、気づかずに来た自分というものをもう一回1つずつ見直して検証していかないと損だなって思いました。だからそれ以降、古いものや歴史も含めて、そういうのをこれからを感じていきたいと思います。
幼少期に叔父が聞かせてくれた、世界への目を開く音楽との出会い
つボイさん:3曲目はペレス・プラードの「マンボ No.5」です。1949年にできた曲なんですが、実は僕と同じ年に生まれた曲なんですよ。後で知りました。これは叔父が聞かせてくれた曲です。
つボイさん:叔父は当時、ジャズとかラテン音楽をいろいろ聞いてました。アート・ブレイキーとかソニー・ロリンズとかジョン・コルトレーンなんていう、有名なジャズ奏者をボロボロの長屋の屋根裏みたいなところにね。自分で組み立てたアンプやスピーカーを使って、それで流れてくるのが、ジャズとかラテンだったわけです。当時としても、かなりの音楽好きだったですね。その叔父は、リタイアしたあと、晩年まで友人とハワイアンバンドで演奏していました。
つボイさん:そうですね。当時の幼い僕は、ジャズはよくわからなかったんですよ。でも、ラテン音楽はすごく刺さったんです。マンボの掛け声とか、あれも画期的だし、あのリズムがいい。情熱的な打楽器のラテンリズムに酔いしれました。「なんという世界があるんだろう」って思いました。外国の曲ってすごいなあということで、ずっと僕はラテンを聞いてましたね。

つボイさん:そうですね。ビートルズも聞きましたけど、ペレス・プラードとか、ザビア・クガートとかね。同学年で僕だけそんな音楽を聞いてました。でも、当時のラテンというのは、もちろん聞くだけではなくて、ダンスミュージックなんですよ。いろんなダンスが昔から流行った歴史があって、こういうラテン系のダンスミュージックで踊るときは、それ以前のダンスは、みんな普通は男女で抱き合って踊りましたけれども、ラテン系のダンスは、ペアを組んでも、セパレートで踊るんですよ。時々手を繋ぐ程度です。チャチャチャもそうです。
そしてその後、ダンスはロックンロール、ツイストの時代になる。今度はペアでもない、向かい合っては踊りますが、1人で踊るという時代になる。いわゆるディスコの時代です。そういうことの橋渡しになったのが、このチャチャチャや、マンボのようなラテン系の音楽だろうと思います。
そしてその後、ダンスはロックンロール、ツイストの時代になる。今度はペアでもない、向かい合っては踊りますが、1人で踊るという時代になる。いわゆるディスコの時代です。そういうことの橋渡しになったのが、このチャチャチャや、マンボのようなラテン系の音楽だろうと思います。
つボイさん:そうなんです。当時の日本のビッグバンドなんかも、このラテン音楽の影響を受けてできたんですから。その頃、歌謡ショーの伴奏をやっていたのが有馬徹とノーチェ・クバーナ、チャーリー石黒と東京パンチョス、東京キューバン・ボーイズ、スマイリー小原とスカイライナーズなど、やっぱりこの頃のマンボやチャチャチャブームの時に結成されたバンドです。或いは、グレンミラーやトミードーシーの影響も大きかったと思います。こうしたバンドがいなかったら、今の日本のビッグバンドもなかったと思いますから、ある意味、本当に大きく、日本の音楽界にも影響を与えたと思います。
つボイさん:本当にそうです。ダンス文化は、キャバレー、クラブから、ディスコへと続いていきます。また、80年代のアイドルの曲をホーンセクション主体にしてアレンジしていたのは、実はブラスロックの影響なんですよ。チェイスという管楽器はトランペットだけのバンドですごくきれいなハーモニーでした。ギター全盛の次にプラスが全面に出てくるという流れも、ロックの中ではありましたね。BSTのホーンプレイのキレの良さは、それこそ革命的で素晴らしかった。
そういった流れの中で、ペレス・プラードは、サンタナなどラテンロックの登場にも少なからず、影響を与えていると思います。
そういった流れの中で、ペレス・プラードは、サンタナなどラテンロックの登場にも少なからず、影響を与えていると思います。
見落としていた大切なものに気づく、年を重ねることの価値
つボイさん:そうですね。どれもが、人生で見落としていた大切なものに気づかせてくれた曲ばかりなんですよ。若い頃の偏見や固定観念は、年を経ることで次々と払拭されていくんです。演歌の素晴らしさも、ラテン音楽の民族的な味わいも、大人になって改めて深く理解できたんですから。
つボイさん:音楽は単なる娯楽じゃないんです。人生の各段階で新たな発見と学びをもたらす贈り物なんです。かつての見落としを反省して、古いものから新しいものまで、あらゆる音楽を謙虚に学び感じる姿勢こそが、真の音楽愛好家だと思いますね。年を経ないと、本当にはわからないことも多いんですよ。それが人生の財産になっていくんですから。
歴史も含めて、そういうのを味わい、感じないかんと思いますね。そして、これら受け継いだものを、今度は我々が未来に繋いでいけたら‥‥と思います。
歴史も含めて、そういうのを味わい、感じないかんと思いますね。そして、これら受け継いだものを、今度は我々が未来に繋いでいけたら‥‥と思います。
